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メロヴィング朝①―クロヴィスからダゴベルトあたり

Q939 メロヴィング朝 - 白水社

見てる。

前の本とかもだけど、読みきれないこと多いので本の時系列ガン無視でメモっていくことにした。

番号は一応振ってるけどあくまでも書いた順番ってことでよろしく


クロヴィスがすごかった

西ローマ崩壊(476年)から数十年後、クロヴィス1世(約466-511年)は5世紀末から6世紀初頭にかけてガリアをほぼ統一した。

  • 486年:ローマ残党シアグリウスをソワソンの戦いで撃破
  • 496年:アレマン人をトルビアックの戦いで撃退
  • 507年:ヴィエの戦いで西ゴート族をガリアから駆逐
  • カトリックに改宗→教会・ローマ系住民の支持獲得

他のゲルマン諸族がアリウス派(異端扱い)だった中、カトリック改宗は支配の正統性を一気に確立する政治的天才手だった。


でも仕組みがクソだった

クロヴィス死後(511年)、王国は息子4人に均等分割される。これがメロヴィング朝の「病気」の根本だった。

フランク族には「王国は息子全員への遺産」という発想があり、「帝国は分割不可」というローマ的概念がなかった。

分割→内紛→統一→また死んで分割、をひたすら繰り返す。


ブルンヒルデとフレデグンドの数十年抗争

6世紀後半の実質的な主役は2人の女性だった。

ブルンヒルデ(約543-613年)

  • 西ゴート王女出身
  • 夫シギベルト1世が暗殺される(575年)
  • アウストラシア(王国の東部・現ドイツ西部〜ベルギー周辺)を拠点に、40年近く息子→孫→曾孫を擁して摂政として実権を握り続ける
  • 道路整備・教皇グレゴリウス1世との文通など行政手腕もあった
  • 史料がほぼ敵対側の記述なので実像は不明

フレデグンド(†597年)

  • 侍女出身・苛烈な策謀家
  • ネウストリア(王国の西部・現フランス北部)側を牛耳り、ブルンヒルデと血みどろの抗争を展開

この2人の対立がフランク王国の内紛の本質だった。


613年:クロタール2世の統一

ブルンヒルデが曾孫(10歳)を擁して摂政をしていたところに、クロタール2世が侵攻。

アウストラシア貴族が「40年間振り回された、もう限界」と寝返り、ブルンヒルデはあっさり捕縛される。

3日間拷問の末、馬4頭に四肢を縛られ処刑。享年60代。

クロタール2世はフランク全土を統一し、翌614年にパリ勅令で貴族・教会に大幅譲歩した。これが結果的に王権を形骸化させ、宮宰を増長させる引き金になる。


貴族と教会のズブズブ構造

フランスの貴族が一貫して強い理由は構造的なものだった。

  • クロヴィスがローマ系地方有力者をそのまま取り込んだ
  • 司教=地方の実力者とほぼイコール
  • 貴族の次男三男が教会に入るので貴族と教会が家族

教会は王にとって地方監視・情報収集・思想統制のインフラだったが、文書行政や知識を教会側が独占していたため、いわば「インフラが自我を持ってシステム全体を規定していく」構造になっていた。

監視ツールとして使いたかったのに、ツールに支配された。


ダゴベルト1世:メロヴィング朝最後の輝き

639年に死んだダゴベルト1世がメロヴィング朝実質最後の有能な王とされる。

死後また2分割(シギベルト3世→アウストラシア、クロヴィス2世→ネウストリア+ブルグンディア)。


宮宰台頭の予兆:キルデベルト養子王事件

シギベルト3世に子供がいなかった時期、宮宰グリモアルドは自分の息子キルデベルトを王の養子にねじ込むことに成功した。

しかしその後シギベルト3世に実子ダゴベルト2世が誕生するという想定外が発生。シギベルト3世が死ぬと、グリモアルドは実子を剃髪してアイルランドの修道院に島流しにし、養子の我が子をそのまま即位させた。

結果:フランク貴族の反発でグリモアルド処刑、キルデベルトも消える。

「メロヴィング家の血」という正統性を宮宰たちが散々利用してきたのに、いざ自分が使おうとしたら同じ概念に跳ね返された。

血統は偽造できない。でも神のお墨付きは買える——この失敗が、後のピピン3世に教皇ルートを思いつかせる。続きあれば②へ。

スペイン史10講_1

人種

メインはイベリア人、ケルト人

他にもフェニキア人と書いたと思う。

イベリア人は先住民

北西:インド、ヨーロッパ色が強い

東南:イベリア色強い、山多め、交易少なめ、

北西部から見ると東南部のイベリア人は田舎者、蛮族っぽい印象

カルタゴ

前4世紀は大きな通商国家

第一次ポエニ戦争でシチリア、サルデーニャを失う。

しかし、世界最強の将ハンニバル・バルカが最高司令官となると、一転

第二次ポエニ戦争では方位殲滅戦やアルプス超えからのイタリア侵攻でローマをボッコボコにしてザグムントを奪う。

ローマは負けじとスキピオやらプブリウスやらを送るが、大敗。スキピオ以外戦死しまくる。

改めて、プブリウスの息子の大スキピオが一万の軍で再侵攻。ザグムントを取り返す。

その後も勝ちまくり、最終的にカルタゴをシチリアから追い出す。

ただ、この時追い出したには追い出したが、現地勢力に苦戦し、全土占領まではできなかったそうだ。

ローマはイベリアの支配地をヒスパニアと呼ぶ。

ちなみに、スペイン語でエスパーニャとは半島全体を指すわけだが、当然ポルトガルもいるのでスペインという意味は間違い。

フランス史10講_2

フランス史10講/柴田三千雄|岩波新書

つづき、二章


フランス

人の役割3つ

祈り、戦い、労働

労働が雑な括りすぎると思ったが、よくよく考えてみると納得した。

補足: これは「三機能理論」と呼ばれる中世ヨーロッパのイデオロギー的身分論。祈る人(聖職者)・戦う人(騎士)・働く人(農民)という区分は、支配を正当化するための建前でもあった。

なぜ労働以外は労働にはいらないのか

祈りも戦いは本来であれば必要もないから。あまりにも効率的じゃない。しかし、戦は人間としては当然の備えるべきことだし、祈りも当時の人間にとっては支えとなる必要なものだと思う。それらは労働として見るのも少しおかしい気がする。

結局このことをわかっていながらも、労働や戦にズカズカと入り込んでめちゃくちゃにした教会はなんだったのか。

補足: 教会が介入できたのは、「神の権威」が王権より上位とされていたから。王でさえ破門されると統治の正当性を失う構造だった。介入は当時の権力構造上、合理的な戦略だった。


フランスの領主制度(〜10世紀ごろ)

ほぼ封建制度

ミクロ視点(民の視点)

からいえば、外敵(盗賊やら隣の領土やらの戦力)から守ってくれてる代わりに租を支払う仕組み。

しかし、途中から守れなかったり、あるいはほとんどそういったことが少なくなったこと

または教会がいろいろと茶々をいれてきたことなどがあって、フランス革命期には廃止された。

マクロ視点

国の中に国を作って、分割統治させる仕組み。結構な妥協案

王朝のちからが弱くなる世代の変わり目や戦などのイベントでしばし交代するが、

後述のカペー朝はここらへんを経済と法律の力で非常にうまくやった。

メモ: オマージュ

臣従礼(オマージュ)

オマージュとは日本人感覚的に言えば、よく言えばリスペクト、悪く言えばパクリなわけだが

オマージュ - Wikipedia

本来の語源としてはこの封建社会における従属の儀式だったそうだ。

ではこれがなぜパクリスペクトになったのか。

それはリスペクトという点で共通している。

この臣従礼、当然服従ではあるが、それは友情のもとになりたってるという建前で行う儀式で

そう考えると先達者の技術に服従?しつつ、あくまでも友情、リスペクトがあるんだよということだとなんとなく解釈した。

補足: オマージュ(hommage)はラテン語の homo(人)から来ており、「あなたの人になります」という意味の誓約儀式。「友情」というより「人格的な忠誠の誓い」が正確なニュアンス。リスペクトへの転化は近代以降。

メモ: “封建制度"の語源

封建制 - Wikipedia

封建制は、もともとは中国古代の周王朝の統治制度であった。秦王朝で始皇帝の前で郡県制の導入が議論されてからは、封建制と郡県制の是非をめぐる議論がしばしば行われた。

Wikipediaを入るとなかなか議論中だとかあるが、ここらへんはそんな変わらないと思う。

一応Wikipediaにもあるが、日本語の封建の語源が上記のルーツであって、ヨーロッパは別軸と思われる。

この歳まで封建ときいてもなかなかイメージがつきにくかったのだが、語源でみるとなかなかわかりやすかった。

補足: 日本語の「封建」は中国(周王朝)由来、ヨーロッパの feudalism はゲルマン語の fief(封土)由来で、全く別系統の概念が同じ訳語になっている。


カペー朝 成立(987年〜)

987年成立。当初は王権が弱く、パリ周辺を抑えるのみで苦戦し続けた。

しかし、12世紀になると領域が広くなっていき、王朝も盤石なものとなる。


フランス教会改革運動(10〜13世紀:またのなを茶番)

1. 修道院改革運動 - 地元封建社会からの脱却(笑)(910年〜、11〜12世紀が全盛期)

要約: 修道院「利権もっとよこせや!」教皇「そうだそうだ」→領主「はい・・・」→修道院利益ほぼ独占丸儲け

フランス史10講_1

フランス史10講/柴田三千雄|岩波新書 を読んでいる。第一章の内容を自分なりに整理してみた。

読みながら頭から引張だして、Claudeにコレも違うあれも違うとダメ出しされまくって清書した内容となってる。

ガリアとフランク族

フランスの大本を辿ると、ガリアという地域にたどり着く。ライン川西側、今のフランス・ベルギー・スイス西部あたりを指す地域だ。ドイツ側はゲルマニアと呼ばれていたので、ガリア=フランスとドイツ両方、というのは厳密には少しズレがある。

ローマ帝国が衰退していく中で、ライン川東側のゲルマン系民族であるフランク族がこのガリアに侵入・定住してきた。

メロヴィング朝とクロヴィスの改宗

フランク族が建てた最初の王朝がメロヴィング朝。名前の由来は始祖メロヴェウス(Mérovée) で、その孫がクロヴィスだ。

当時のキリスト教世界ではアタナシウス派アリウス派が激しく対立していた。アタナシウス派(後のカトリック)はイエスの神性を認める立場で、ガリアの旧ローマ系住民や聖職者に広まっていた。

クロヴィスの妻クロティルドがアタナシウス派の信者で、彼女を通じてキリスト教がクロヴィスに近づいていった。クロヴィスはある戦いの勝利をキリスト教の神のおかげと解釈し、改宗を決意。ランスの司教レミギウスが洗礼・塗油の儀式を執り行った(496年頃)。

蛮族であるフランク族がアタナシウス派と手を結んだことで、旧ローマ系住民の支持を取り込みフランク王国の基盤が固まっていく。

カロリング朝へ:宮宰たちの台頭

メロヴィング朝は約300年続いたが、後半は王が完全に形骸化し「怠惰王」と呼ばれる無能な王が続いた。実権を握っていたのは**宮宰(マヨル・ドムス)**と呼ばれる役職の人間たちだ。

その中でも重要なのがカール・マルテル。732年のトゥール・ポワティエの戦いでイスラム勢力(ウマイヤ朝)の北上を食い止めた。この一戦がなければヨーロッパのキリスト教世界は大きく変わっていたかもしれない。

カール・マルテルの息子ピピン3世は、教皇の承認を得てメロヴィング朝の王を廃位し、カロリング朝を創始した(751年)。

シャルルマーニュと西ローマ皇帝戴冠

ピピンの息子が**シャルルマーニュ(カール大帝)**だ。フランス語と英語ではシャルルマーニュ、ドイツ語ではカール大帝と呼ばれるが同一人物。

フランク王国の版図をフランス・ドイツ・イタリアにまたがる広大な領域に拡大し、800年に教皇レオ3世から西ローマ皇帝に戴冠された。西ローマ帝国滅亡(476年)以来、初めて西方世界に皇帝が復活した瞬間だ。

ヴェルダン条約と3分割

シャルルマーニュの死後、孫の世代が**ヴェルダン条約(843年)**によって王国を3分割した。

西フランク → ほぼ今のフランス
中フランク → ほぼ今のイタリア+ロレーヌ地方
東フランク → ほぼ今のドイツ

「厳密には違う」という留保はあるものの、今のフランス・ドイツ・イタリアの原型がここで生まれたとも言える。特に中フランクのロレーヌ地方はその後もフランスとドイツの間で何百年にもわたって争われる火種になっていく。

封建制の誕生とカペー朝

分裂したフランク王国を悩ませたのがヴァイキング(ノルマン人)の侵攻だ。セーヌ川やロワール川を遡って内陸まで略奪を繰り返した。中央の王権がそれを止められないため、地方の公爵・侯爵・辺境伯たちが独自の軍隊を持って自衛するようになった。これが封建制の実質的な始まりだ。

やがてカロリング朝の血統が途絶え、強力な地方領主が王に成り代わる。987年にユーグ・カペーがフランス王に選出され、カペー朝が始まった。

東の話:神聖ローマ帝国

一方、東フランク(ドイツ方面)ではオットー1世が962年に教皇から戴冠を受け、神聖ローマ帝国が成立した。フランスとドイツはここで明確に別の道を歩み始める。

魔女狩りのヨーロッパ史を読んでいる雑記①

ちなみに、かなり自分の認識でメモを取ったので

正しさについて生成AIに少しだけ補填させる。そのためわずかに信頼性が向上すると思うが、

所詮私と生成AIなのでメモ程度の信頼度だ。

読んでる本

魔女狩りのヨーロッパ史(233ページ)。眠くて途中まで。

魔女狩り = ヒトラーのユダヤ人迫害と同じ構造

社会不安があって、極少数の何かを敵にすることでキリスト教への不満をそらした。たまたまその「何か」が、一定の属性を持つ女性だっただけ。

スケープゴートを作る集団心理は時代が変わっても同じ。魔女狩りもホロコーストも現代のSNS炎上も構造は変わらない。

狙われた女性の属性

村や町の中で「平均的な女性」と異なる属性を持つ女性。未婚女性は特に狙われていたのではないか。

集団の上位層・ボスザル的な女性に密告させると効果絶大。つまり集団のボスが気に食わない女性を、制度を使って私刑にできた時代

反証不可能なシステム

魔女狩りが機能した理由は、反証できないシステムが完備されていたから。

  • 悪魔との契約書がある → でも不可視なので見つからない
  • 魔女は悪魔の尻にキスすると体に刻印が出る → 人間の体には必ずどこかに痣やほくろがある → 全員有罪にできる
  • 魔法が使えない → 十字架のせい
  • 教皇に攻撃できない → 守られているから
  • 証拠がない → 不可視だから
  • 逃げない → 有罪の証拠
  • 逃げる → 有罪の証拠

カール・ポパーが聞いたら卒倒する。

人狼のいない人狼ゲーム

「村人全員が人狼はいるという前提で始まるゲーム」。誰かを吊るすまで終わらない。

ネズミ講構造

  1. 一人捕まえる
  2. 拷問で「サバト参加者」を自白させる
  3. 名前が出た人を捕まえる
  4. また拷問 → また名前が出る
  5. 無限ループ

拷問中の自白なので、生き残るために知り合いを全員売ることになる。村ひとつ丸ごと消せる。

魔女の悪徳魔術

怪我、病気、精神病、不作、家畜の死、天候まで全部魔女のせい。

原因不明のことを説明する万能概念として機能していた。被害者が「魔女のせいだ」と思い込み、近くの怪しい女性を告発する → ネズミ講発動。被害者が加害者に変わる構造。

魔女狩り装置は多目的兵器だった

カタリ派、ワルドー派、フラティチェッリ、テンプル騎士団まで同じ装置で処理された。

テンプル騎士団は異端でも何でもなく、金持ちすぎてフランス王フィリップ4世に目をつけられただけ。「異端認定」が財産没収ツールとして機能した。現代の「反社認定」と同じ。

気に食わないやつ、金持ちすぎるやつ、なんでも「異端」ラベルを貼れば処理できる。

魔女狩り前の下地

いきなり魔女狩りが始まったわけではなく、事前に「定義の整備」があった。

  • 悪魔はこういうことをする
  • 契約書があるが消える
  • 悪魔の尻にキスする
  • キリスト教の十字架を踏む

先に罪状ありきで、あとから犯人を当てはめる構造。現代の冤罪と同じ。

議論がパワーバトルに堕ちる瞬間

宗教の問題は「反証不可能な権威」が議論に混入すること。議論ができなくなったら、あとはパワーバトルになる。

魔女裁判も最終的には「教皇が言ったから」で収束した。議論が機能しなくなった瞬間に暴力装置が正当化される。

ワイマール共和国からナチスへの流れがまさにそれ。

大東亜共栄圏を読んでいる雑記①

新書を借りて読んでいる。テーマは大東亜共栄圏。2章くらいまでみた。覚えてなかったり、理解してない部分が多いので記憶からメモを掘り起こして清書した。

資源問題の構造的詰み

日本が満州を獲得したものの、肝心の石油が出なかった。近代戦争における石油の重要性を考えると、これは致命的な欠陥だった。

石油を求めて目を向けたのが東南アジア、特に蘭印(現インドネシア)だった。スマトラ島やボルネオ島に大油田があり、ボーキサイト(アルミニウムの原料)やニッケルまで揃っていた。ビルマにも油田はあったが、イギリスの記録によれば「大した量ではない」らしく、メインはあくまで蘭印だった。

ちなみにニッケルは装甲鋼板や砲弾の被甲に使われる合金素材で、鉄だけでは強度が足りない場面に混ぜて使う。ボーキサイトは航空機の機体に使うアルミニウムの原料だ。ゼロ戦を大量生産するには蘭印が必要だった、という構図が見えてくる。

アメリカとの対立

問題はアメリカだった。満州を手放せ、さもなくば石油輸出を止めるという圧力をかけてきた。日本はエネルギーの約80%をアメリカに依存していたため、これは実質的な詰みだった。

陸軍は満州を手放すことを絶対に認めなかった。長年の犠牲の末に得た満州を手放すことへの埋没コストへの固執、とも言える。海軍はオロオロしていたらしい。結果として開戦に踏み切ることになる。

42年の生産目標という現実逃避

本に記載されていた42年の生産目標がすさまじかった。

  • 鈴:10万トン
  • 鋼材:3,000万トン
  • 銅:60万トン
  • 亜鉛:45万トン
  • アルミニウム:60万トン
  • 石炭:6億8,000万トン
  • ニッケル:7万トン
  • 石油:2,000万キロリットル

41年の実績と比較すると、石炭ですら1/5程度しか達成できていなかった。石油にいたっては雀の涙だった。この実績から翌年に数倍の目標を設定するというのは、現実を無視した数字としか言いようがない。

「できません」が言えない組織構造が、現場の実態とかけ離れた計画を生み出していた。大本営発表が現実と乖離し続けたのも、悪い情報が上に届かない同じ病理だろう。

綿花という盲点

石油ばかりが注目されるが、本によると綿花の不足も深刻だったらしい。

綿花は衣類や生活用品の原料というイメージがあるが、実は無煙火薬(ニトロセルロース)の原料でもある。綿花を硝酸と硫酸の混合液に漬けることで火薬になる。これは1845年にスイスの化学者シェーンバインが奥さんのコットンエプロンで硝酸をこぼしてふき取ったら爆発した、という事故から発見された。

つまり綿花不足は弾薬不足に直結する。日本は綿花をインドとアメリカからほぼ全量輸入していたが、開戦によってどちらも断たれた。共栄圏内に代替産地が少なかったことも痛かった。

計画の前提が崩れる構造

開戦前、国内のコメは既に不足していた。しかし共栄圏内からの輸送が成功することを前提にすれば計算上は間に合う、という見立てだったらしい。

タイ・仏印・ビルマはコメの大産地だ。そこから輸送できれば帳尻は合う。ただしアメリカの潜水艦が輸送船を沈め続けたため、せっかく占領した地域の資源が本土に届かないという事態が生じた。計画の前提が一つ崩れただけで全体が詰む、単一障害点だらけの設計だった。

日中戦争との同時並行

太平洋戦争(1941年〜)と日中戦争(1937年〜)は別物だ。日中戦争が泥沼のまま終わらない状態で、太平洋戦争を追加で始めた。さらにビルマ・東南アジアでも戦線を張ることになり、実質3正面作戦に近い状況だった。

農村の働き手が兵士として根こそぎ動員されることで農業生産力が落ち、兵站で米を大量消費することで国内に回らなくなる。石油が来なければ農業機械も動かない。負のスパイラルが重なっていた。


まだ読み途中なので続きはまた書く。資源の話が中心だが、当時の意思決定の歪みが数字を通じてよく見えてくる本だと思う。