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スペイン史10講_2 フランスヴァロワ周りの脱線つき

スペイン史10講

読んでる。

中世スペイン史とイングランド・フランスの因縁、あと勝手にやってるフランス王格付けのメモとか

途中から時系列ガン無視で頭から書き出したりしてる。

カスティーリャ〜グラナダ陥落

カスティーリャはもともとレオン王国の辺境伯領、つまり対イスラム最前線の防衛区画だった。それがサンチョ3世の代で王国に格上げされて、その後もレオンと統合・分裂を繰り返す。国境の防衛拠点が本体を飲み込んでいく感じ、辺境が中心になるパターンって歴史あるあるだと思う。

アルフォンソ6世が1085年にトレドを奪還したのは大きい。370年近くイスラム支配下にあった都市を取り戻したわけで、これはレコンキスタ史上初の大都市征服とされている。

ただしこの勝利、調子に乗ったアルフォンソ6世が翌1086年にサグラハスの戦いでムラービト朝に大敗するオチがついてくる。勝ったと思ったら北アフリカから援軍呼ばれて返り討ち、という展開はこの時代割とよくある。

アラゴン連合王国も面白い。核になったのは1137年、アラゴン女王ペトロニラとバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚によるアラゴン王国とバルセロナ伯領(カタルーニャ)の結合(Wikipedia)。バレンシアとマヨルカ(バレアレス諸島)は13世紀前半、ハイメ1世の代にイスラム勢力から征服・編入されたもので、後から加わったピースになる。各領域は独自の法律・議会(コルテス)を維持したまま王だけを共有する複合君主制で、王は同じだけど国はバラバラという統治形態が18世紀初頭まで生き延びるのはちょっと異常な粘りだと思う。

ポルトガルの独立も段階を踏んでいる。1139年(オーリッケの戦いの後、アフォンソ・エンリケスが国王として推戴された年)に王号を称し、1143年のサモラ条約でレオン側がこれを政治的に承認、そして教皇による正式な国家承認は1179年の教皇勅書までかかっている(Wikipedia)。名乗り→隣国の承認→教皇の承認と3段階に分かれているので、「独立年」を一言で言い切るのは実は難しい。

とはいえ13世紀半ばに自力でレコンキスタを完了させたあとは半島内紛から距離を置いて大西洋へ向かう、というのも納得の流れ。隣がずっと戦争してる場所からさっさと抜けて海に出るの、判断として正しい。

グラナダ王国が250年も生き延びた理由は複合的。シエラネバダの険しい地形、カスティーリャ側の内輪もめ、朝貢システム、地中海貿易による経済的な豊かさ。特に朝貢して属国扱いされることで生き延びるという選択、プライドより実利を取った結果として250年稼いだわけで、これは普通に有効な戦略だったと思う。

統一のきっかけはイサベル1世とフェルナンド2世の結婚(1469年)。自分のメモでは「駆け落ち婚」と書いたけど、これも少し正確に言うと事情がある。

補足: イサベルは兄王エンリケ4世の意向でポルトガル王への輿入れが検討されていたが、これを拒否し、地中海に勢力を持つアラゴン王子フェルナンドを自ら結婚相手に選んだ(Wikipedia)。周囲の意向を無視して密かに結婚した、という点では「駆け落ち」の空気はあるが、逃避行というより政略的な自己決定に近い。

エンリケ4世が死んだあとカスティーリャ継承戦争(1475-79)が起きて、イサベル側が勝って事実上の同君連合が成立。ここから本腰入れてグラナダ攻略に向かい、1492年1月2日に陥落。ボアブディルがアルハンブラ宮殿の鍵を引き渡して降伏・亡命した(グラナダ陥落についての解説)。同年にコロンブスが出航してるのも有名な話で、レコンキスタの完了と大航海時代の幕開けが同じ年に重なってるの、歴史の節目としてできすぎてる。

英仏の因縁

カペー朝(987-1328)は前半、王領がめちゃくちゃ弱くて諸侯のほうが強いという情けない状態が続く。フィリップ2世あたりから王権強化が始まる。

因縁の発端はアリエノール・ダキテーヌ。ルイ7世と離婚したあと、わずか2ヶ月後にアンジュー伯アンリ(のちのヘンリー2世)と再婚(Wikipedia)。アリエノールが持ってきたアキテーヌ領とアンジュー家の領地が合体して「アンジュー帝国」(ノルマンディー+アンジュー+アキテーヌ)が成立、当時のフランス王領よりはるかに広大になる。フランス王の家臣のはずのイングランド王が、主君より広い土地を大陸に持ってるという歪な構図がここで生まれる。

これを是正したのがフィリップ2世。失地王ジョンの甥アーサー(ブルターニュ公)の相続権を担いで内紛を煽り、宗主権の建前を悪用して法廷闘争に持ち込み、最終的に軍事行動でノルマンディーをはじめ大陸領の大半を奪う(Wikipedia)。制度と実力の両方を駆使する、というのがフィリップ2世のえげつないところ。裁判で正当性を作ってから軍事的に決着つける、現代でもよくある手口だと思う。1204年頃に大陸領の大半を失ったジョンは、その後も税と軍役を貴族に要求し続けて反乱を招き、1215年にマグナ・カルタへの署名を強制される(マグナ・カルタ Wikipedia)。大陸で領土失って、本国でも貴族に押し切られる、二重に負けてる。

百年戦争(1337-1453)はヴァロワ朝(カペー断絶後の傍系)の代でさらに危機を迎える。1415年のアジャンクールで大敗、1420年のトロワ条約でヘンリー5世がフランス王位継承者として承認され、ほぼ王位喪失寸前まで追い込まれる(Wikipedia)。ここでジャンヌ・ダルクが登場(1429年)してオルレアン解放、シャルル7世をランスで戴冠させる。戦局の転換をジャンヌ個人の登場だけに寄せて語られがちだけど、実際には1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派とシャルル7世が和解しイングランドとの同盟を解消したこと、フランス側の軍制・財政改革、イングランド側の内部対立による弱体化なども重なっていて、ジャンヌの登場はその中の象徴的な転換点と見るのが妥当だと思う。

そこからフランスは巻き返して、最終的にカレー以外のフランス本土からイングランド勢力を一掃して戦争終結。厳密にはイングランドはカレーに加えチャネル諸島も保持し続けていて(カレーについての解説)、カレー自体は1558年までイングランド領として残る。とはいえフランス本土という意味では「カレー以外の全土を奪還」で通じる話ではある。

フランス王評価

カール大帝とナポレオンは別格として扱われることが多い。3枠目争いはフィリップ2世、ルイ14世、アンリ4世、フィリップ4世あたり。

ルイ14世は中央集権を完成させた王として評価が高い。貴族をヴェルサイユに集めて豪華な宮廷儀礼に縛りつけ、実質的な権力を骨抜きにする(ヴェルサイユと貴族統制について)。ここまでは統治手腕として見事。

ただし晩年は完全に失速する。戦争しすぎて財政破綻寸前まで追い込み、1685年にナントの勅令を廃止してユグノー(プロテスタント商工業者)を大量に国外流出させ、フランスの経済的競争力を自ら削る(Wikipedia)。さらに同盟関係も崩して孤立する。ルイ14世の死(1715年)から革命(1789年)までは70年以上あり、間に摂政期・ルイ15世・ルイ16世を挟むので、単純に「フランス革命の遠因」と言い切ると因果をまとめすぎになる。実際にはルイ14世が残したブルボン朝の慢性的な財政構造(戦費による負債体質)を悪化させ、それが革命前夜の財政危機につながる長期的要因の一つになった、というくらいの距離感が正確だと思う。

内政の集権スコアだけ見れば高得点だけど、それは地方の自立性や外交的信頼という「資本」を削って稼いだ点数、という割引きが必要だと思う。短期の統治効率と長期の国力は別物、という当たり前の教訓がルイ14世の生涯に詰まってる感じがする。ヴェルサイユで貴族を骨抜きにする発想自体は権力集中として合理的だったんだろうけど、その代償を払うのが自分の代じゃなくて後継者たちだった、というのがなんとも言えない。

国連のジェノサイド認定という茶番

戦争論/多木 浩二|岩波新書 - 岩波書店 またまたこの本見てジェノサイド条約について調べてたら、思ったより闇が深かったのでメモっておく。時系列ガン無視で、気になった事例を並べただけの雑記。

一度書いて、後から自分で「これ言い切りすぎでは」と思った箇所がいくつかあったので、事実確認して直しながら書いてる。

そもそもの定義がすでに狭い

1948年のジェノサイド条約第2条が保護するのは「国民的、民族的、人種的または宗教的な集団」のみである。「政治的集団」は最終的な条文には入っていない。

起草過程では、政治的集団も保護対象に含める案が一時存在したが、最終的に削除された。これを主導したのはソ連だけではない。アルゼンチン、ブラジル、ドミニカ共和国、イラン、南アフリカなども同調していて、複数国が連合して除外を支持した構図らしい(出典: ジェノサイド条約 - Wikipedia)。

認識ミス: 当初「最初の草案には社会・政治集団も入ってた」「ソ連が強く主張して単独で除外させた」と書いていたが、これは2点とも修正が必要だった。まず「社会的集団」まで最初の草案に含まれていたと断定できるほどの一次資料は確認できていない(起草過程には複数段階の草案があり対象集団のリストも異なるため、確実に言えるのは「政治的集団」まで)。またソ連は除外派の主要国の一つではあるが、単独犯のように書くのは単純化しすぎで、複数国が連合して除外を主張した。反対論拠も「国内の反乱鎮圧を恐れて」の一点張りではなく、「政治集団は加入・離脱可能で恒常的な集団ではない」「国内政治への国際的干渉につながる」「ジェノサイド概念の過度な拡張になる」など複数あった。

定義そのものが、各国の政治的利害を含む交渉の妥協の産物だということになる。「大国の自己防衛のため」と一言で片づけられるほど単純でもなく、大国以外の国も対象集団の限定を支持していた。それでも、対象集団をここまで狭く切った条文が、後々の認定を難しくしていく構図自体は変わらない。

カンボジア:170〜200万人殺して、ジェノサイド認定は一部だけ

クメール・ルージュ政権(1975-79)、犠牲者は100万〜200万人規模。都市住民の強制移住、強制労働、飢餓に加え、政治的・社会的カテゴリーに基づく粛清が行われた(出典: 在カンボジア日本国大使館)。

2018年、ECCC(カンボジア特別法廷)はチャム族・ベトナム系という「民族」集団への迫害についてジェノサイドで有罪認定した。それ以外の政治的迫害・強制移住などについては、「人道に対する罪」として別途認定されている(出典: gooddoマガジン)。

ここで最初「大半は政治的集団への迫害だからジェノサイドにならなかった」と単純化して書いたが、これは法的にはもう少し複雑だった。

認識ミス: ジェノサイドが成立するには、①保護対象となる集団への行為であること、②条約所定の行為があること、に加えて③その集団を全部または一部破壊するという特別の意図(genocidal intent)が立証されること、の3つが必要になる。つまり「政治集団だったからジェノサイドにならない」の一言では終わらない。強制労働や飢餓による大量死それ自体が自動的にジェノサイドになるわけでもない。裁判所は170万人の虐殺を「民族だからジェノサイド/政治だから違う」と単純に仕分けしたわけではなく、個別の犯罪行為・被害集団・加害者の意図をそれぞれ審理した結果として、標的となった集団と意図によって法的分類が分かれた、というのが正確なところ。また「人道に対する罪止まり」という書き方もしていたが、これも訂正が必要。人道に対する罪はジェノサイドより軽い犯罪類型というわけではなく、ジェノサイドには単に特殊な構成要件があるというだけの話。

元国連大使サマンサ・パワーは、著書「集団人間破壊の時代」の中で、カンボジアの件がジェノサイド条約の要件に合致するか検討した米政府高官は一人もいなかった、という趣旨のことを述べている(出典: INPS Japan)。

補足: このサマンサ・パワーの発言は、二次資料(INPS Japanの記事)経由でしか確認できておらず、著書本文・該当ページを直接あたって一次確認はできていない。強い引用として扱うより、「そう紹介されている」くらいの温度感で読んでほしい。

崩壊後も国連の議席を持ち続けたクメール・ルージュ

これが一番えげつないと思った部分。

1979年1月にベトナム軍がプノンペンを制圧してポル・ポト政権は崩壊、タイ国境へ逃げた。それでも崩壊後の亡命政府「民主カンプチア政府」は国連の議席を保持し続ける。1982年にはクメール・ルージュ、シハヌーク派、ソン・サン派の反ベトナム3派が連合し、「民主カンプチア連合政府(CGDK)」としてカンボジアの国連代表権を維持した(出典: 民主カンプチア - Wikipedia)。

認識ミス: 「国連での代表は実質クメール・ルージュ官僚が務めていた」と書いていたが、これは裏付けが取れる資料を見つけられなかったので削除した。1982年以降は形式上クメール・ルージュ単独ではなく、シハヌークを首班、キュー・サムファンを副大統領、ソン・サンを首相とする3派連合政府(CGDK)であり、クメール・ルージュが主要構成勢力の一つとして含まれていた、というのが確認できる範囲での正確な書き方。

ワシントン・ポスト紙は1980年9月、この状況を評して「米国がポル・ポト政権の国連議席維持を支援」という趣旨の見出しを掲げている(出典: Washington Post archive)。背景は完全に冷戦構造で、ベトナム=ソ連陣営の傀儡政権(ヘン・サムリン政権)を認めたくない米・中国・ASEANが結託して、クメール・ルージュを含む反ベトナム連合政府を「カンボジアの正統代表」として国連に座らせ続けたわけだ。

この代表権がいつまで続いたかについても、当初のメモは精度が低かった。

補足: 当初「議席保持は1993年のUNTAC制憲選挙まで継続」としていたが、調べ直すとこれは不正確だった。CGDKは1982年から少なくとも1980年代を通じてカンボジアの国連代表権を維持し、1990年9月にシハヌークを議長とする「カンボジア最高国民評議会(SNC)」の設置が決まり、1991年10月23日の「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ和平協定)によって、SNCがカンボジアを対外的に代表する体制へ正式に移行した。1993年はその後の制憲議会選挙・新政権樹立の年であって、国連代表権そのものの移行はそれより前の1990〜91年の和平プロセスで決着している(出典: パリ協定(カンボジア和平) - Wikipediaアジア経済研究所)。

大量虐殺した勢力を主要構成要素として含む政府が、崩壊後10年近く国際社会の「正式な代表」として扱われ続けた。これは条約の定義の穴という話を超えて、加害勢力そのものを冷戦の駒として利用した話だ。

ソ連、天安門、原爆:ジェノサイドとして扱うのが難しい事例たち

ここから先は自分の頭の整理。最初「法的に裁けない虐殺たち」という見出しにしていたが、これは強すぎた。ジェノサイドとして扱うことに法的な障害がある、というのが正確なところで、他の犯罪類型(人道に対する罪、戦争犯罪など)での訴追可能性まで否定する話ではない。

  • ソ連の大粛清:中心を占める政治的・階級的理由での粛清は、条約の政治集団除外により原則としてジェノサイドの対象外になる。ただし大粛清の中にはNKVDによる「ポーランド作戦」のような、民族を標的にした「民族作戦」も含まれており、これについては研究者や機関によってジェノサイドと評価されることがある(出典: Institute of National Remembrance)。ひとくくりに「大粛清=非該当」と言い切るのは雑だった。
  • ホロドモール(1932-33年のウクライナ飢饉):当初「政治的・階級的理由での殺害で条約定義に非該当」と書いたが、これは誤りに近い。ホロドモールがジェノサイドかどうかは、「ウクライナ人という国民的・民族的集団を破壊する意図があったか」がまさに争点になっていて、今も学説上の議論が続いている(出典: ホロドモール - Wikipedia)。欧州議会やウクライナ議会など複数の議会がジェノサイドと認定する決議を採択している一方、これは政治的な認定であって国際刑事裁判所が確定判断を下したわけではない。「農民という社会階級への攻撃だったのか、ウクライナ人という国民集団を破壊する政策だったのか」で評価が割れている、というのが実態に近い。
  • 天安門事件(1989):対象は「民主化要求者」という政治的立場で、通常のジェノサイド条約上の保護集団には該当しにくい。ただし、これより大きな障害は別にある。ICC(国際刑事裁判所)はローマ規程第11条により、2002年7月の規程発効より前の犯罪を扱う権限がない。天安門事件は1989年なので、中国の拒否権うんぬん以前に、そもそもICCの時間的管轄の外にある。加えて中国はローマ規程の締約国でもない。安保理拒否権の問題は、2002年以降に中国が関与する事案を考える際には大きな障壁になるが、天安門事件そのものに関しては「時間的管轄外」の方が本質的な壁だった。

認識ミス: 天安門事件について、当初は「安保理拒否権があるからICC付託が政治的に不可能」という書き方だけをしていたが、これは筋が違った。一番の壁は拒否権ではなくローマ規程の不遡及原則(時間的管轄)であり、しかも中国はそもそもICC非締約国。拒否権の話は成立しない前提の上に乗っていた。

手遅れな勘違いもある

戦争論/多木 浩二|岩波新書 - 岩波書店 という本をを読んでてふと思ったことと、同時に少し前にみた記事の中であったOSSコミュニティで昔あった炎上の話が頭の中でつながった。

AIと相談してるとなんか妙につながったり、つながらなかったりしたので一応記事にしといた。

頭蓋骨を測った男たち

ルワンダのツチ族とフツ族、もともとそんなにガチガチの民族区分じゃなかったらしい。牛をたくさん持ってる層がツチ、農耕中心がフツ、くらいの緩い社会・経済区分に近かったという話。

そこに「科学的な人種論」を持ち込んだのが植民地統治者たち。ツチは他所からやってきた優れた支配民族で背が高くて鼻筋も通ってて知的、という「ハム仮説」。ドイツ統治期からベルギー統治期にかけてこれが制度として固定化されていく。1933年前後には身分証にツチ/フツ/トゥワの区分を明記、頭蓋骨計測やら鼻の高さの測定やら、疑似人類学的な「調査」までやってる。くだらん茶番だが、当時は本気でやってたんだろう。

背景には19世紀ヨーロッパで広まった人種論、ゴビノーの『人種不平等論』みたいな思想潮流がある。ゴビノー自身がルワンダを論じたわけじゃないけど、「文明化した人種/劣った人種」って枠組みを広めた点では、後の悲劇への地ならしをした側面はあると思う。

独立前後にベルギーは多数派フツ側に体制を乗り換えて、それまで優遇されてたツチへの恨みが政治利用される構図ができる。この緊張が1994年のジェノサイドまで長く尾を引く。

数十万人規模の死者もえげつないが、もっと重いのは「隣人が隣人を殺した」という事実。制度が生んだ分断が末端の人間関係そのものを焼け野原にした。人口は数字上回復しても、コミュニティの信頼っていう社会インフラの復旧には破壊にかかった時間よりずっと長い年月がかかる。壊すのは一瞬の政策決定で済むのに、直すのは何世代もかかる。理不尽だ。

ベルギーやドイツは「間違ってた」と断罪できるのか

当時の統治者たちも、自分たちの理屈では「近代的な行政制度を導入してる」「合理的な統治をしてる」つもりだった側面はあるはず。悪意だけで全部説明するのは単純化しすぎな気がする。

だとすると、今の時代に「正しい」「合理的」と信じてやってる介入や制度設計も、数十年後には同じように断罪される可能性がある。途上国への食糧援助が現地の農業基盤を壊して長期的な自立を妨げた、みたいな話は構造としてこれに近い。当事者は善意のつもりでも、外部からの介入自体が現地の力学を歪める。

この視点に立つと、ゴビノーやベルギー統治者の本当の問題は「介入したこと」自体より、「自分たちの理論に確信を持ちすぎて、現地からのフィードバックを無視したこと」にあったんじゃないか。当時のヨーロッパにも人種の生物学的優劣という理論への懐疑はすでにあった。それでも都合のいい理論に飛びついて、検証を怠った。そこに責任がある気がする。

OSSの「政治的発言禁止」ルールと、その裏で起きたこと

「争いの火種になりやすく、本質的な目的に不要な話題は避けるべき」って原則、OSSコミュニティの「政治的発言を持ち込むな」ってルールとも重なる。実際、大規模OSSプロジェクトの多くはメーリングリストやissueでの政治・宗教的な話題を明示的に禁止してる。

ただ現実には、この「何を政治的とみなすか」自体が火種になった事例がある。

Linuxカーネルのコード・オブ・コンダクト騒動(2018年)

2018年9月、Linuxカーネルコミュニティは、それまでの簡素な「Code of Conflict」を、Contributor Covenantベースの詳細な「Code of Conduct」に置き換えた。この変更のわずか30分後、創始者のリーナス・トーバルズは自身の言動を省みるとして開発から一時的に離れることを表明した(It’s FOSS)。

このCoCの主著者コラリン・エイダ・エムケは、騒動の翌日「SJWに侵食されたLinuxからの大量離脱が楽しみだ」って趣旨の投稿をして、さらに翌々日にはこのCoCは政治的な文書だと明言してる(Lev’s developer blog)。なんやこいつら、って正直思う。これでCoC導入そのものが「政治的な運動の持ち込みだ」と受け止める側と「必要な行動規範だ」と支持する側の対立が先鋭化した。

一方でCoC導入を後押しした側にも言い分はある。開発者のセージ・シャープは、CoC以前の「有害なコミュニティ」を理由に、すでに2015年の時点でLinuxカーネル開発から離脱してた(It’s FOSS)。つまりこの一件、「政治的発言を規範化したことで人が離れた」だけじゃなく、「規範がなかったことで先に人が離れてた」っていう両方向の離脱が同時に存在してた事例でもある。詰みポイントがどっちサイドにもあったって感じ。

OpalGate(2015年)

Rubyの処理系の一つOpalのコア開発者がTwitterで行ったトランス差別的な発言をめぐって、プロジェクト外の人物も巻き込んだ大規模な炎上が起きた事例。

認識ミス: 発言した本人はプロジェクトの「メンテナー」だと当初書いていたが、Geek Feminism Wikiの記録では「self-identified OpalRB core contributor」(自称コア貢献者)とされていて、メンテナー(プロジェクト管理者)そのものではない。修正した。

除去を求めるissueには374件のコメントが67人の参加者から(Geek Feminism Wiki)。その後別途「行動規範を採用すべきか」というissueが立ち、こちらに436件のコメントが60人の参加者から寄せられ、最終的にプロジェクトはContributor Covenant version 1.0を採用するに至った(Geek Feminism Wiki)。

補足: 元の草稿では「436件/60人」を騒動全体の数字のように書いていたが、正確には行動規範採用issueの方の数字。除去要求issue自体は374件/67人と、こちらも相当荒れている。

この一件を批判する側からは、「プロジェクトと無関係な私的発言まで規範の対象になるなら、参加者は常にプロジェクトを代表していることになり、事実上何を言っても規範違反になり得るのでは」という指摘がなされた(Paul M. Jones)。この反発から、行動規範への対抗運動として「NoCoC」と呼ばれる取り組みも生まれてる(Model View Culture)。

ヨーロッパとゲルマン部族国家を読む③

Q1028 ヨーロッパとゲルマン部族国家 - 白水社

②の続き。今回は傭兵システムの内実と、ローマが貨幣とキリスト教でそれぞれ何をやらかしたか、というあたりのメモ。

蛮族傭兵、雇い主が違うと平気でぶつかる

②で書いた通り、ゲルマン人はかなり早い段階からローマ軍に組み込まれていた。ただこれ、「ゲルマン人 vs ローマ」みたいな単純な図式ではなくて、雇い主が違えば蛮族同士でも平気でぶつかる。ゴート族もフランク族も、あくまで「今の雇用主」のために戦っているだけで、民族的な団結で動いていたわけではなさそうだ。前回の「フランクという名前自体が後付けの総称」という話ともつながっていて、当事者たちにとって「ゲルマン人としての連帯」よりも「今どこに雇われているか」の方がよほど実利的な行動原理だったんだろう。

大移動は「突然」ではない

これも②の延長線上の話。「ゲルマン民族大移動」という呼び方から受ける「ある日突然、大群が押し寄せた」というイメージは誤りに近い。リーメス沿いでは何世紀も前から交易・交渉のパイプが機能していて、②で触れた「傭兵経由で情勢が漏れ伝わる」構造もそう。移動というより、既存の接触の延長線上で徐々に流入が増えていった、と捉える方が実態に近いらしい。

ローマの3世紀:内乱・対ササン朝・そして貨幣

②でも235年のセウェルス・アレクサンデル暗殺から始まる軍人皇帝時代の混乱に触れたが、これに輪をかけて効いたのが貨幣の劣化。デナリウス銀貨は帝政初期から品位低下が続いていたが、3世紀の軍人皇帝時代には銀箔を被せただけの銅貨同然にまで落ちた(コトバンク「デナリウス貨」)。テトリクス帝(271〜274年)発行のアントニニアヌス銀貨に至っては銀含有率0.5%程度で、貨幣の信用は完全に崩壊していたという(「古代ローマの通貨」parisii.jp)。

内乱の戦費とササン朝との戦争、両方の出費を賄うために銀の含有率を下げて数だけ確保する、という問題を先送りにする形での延命をやった格好になる。ディオクレティアヌス帝の通貨改革(銀100%のアルゲンテウス銀貨の新規発行)まで、この状態がずっと続いたことになる。

ローマ化の道具としてのキリスト教、と、その裏目

蛮族をローマ社会に組み込む際、キリスト教が同化のツールとして使われた、という話。これ自体は納得できる話で、共通の宗教は統治コストを下げる。

ただ皮肉なのは、ローマがキリスト教を利用する以前、まさにこの3世紀にキリスト教徒自身が皇帝から迫害されていたという点。デキウス帝(在位249〜251年)は全帝国規模でキリスト教徒に神々への祭儀を義務づける勅令を出し、拒否した信者を殉教に追い込んでいる(Wikipedia「古代末期のキリスト教」)。理由は単純で、キリスト教徒は一神教で皇帝崇拝という政治儀礼を拒否するため、体制側から見ると「皇帝の権威よりも信仰を優先する不忠な集団」に見えたということらしい(カトリック中央協議会「古代のキリスト教」)。

補足: デキウス帝の迫害は250年、ゴート人など蛮族の侵略が背景にあったとされる(Wikipedia「古代末期のキリスト教」)。デキウス自身、翌251年にゴート軍とのアブリットゥスの戦いで戦死しており、迫害は結果的に短命に終わっている。

つまり同じキリスト教が、時期によって「迫害対象」にも「統治の道具」にもなっている。宗教そのものの性質というより、皇帝側の統治上の都合でどちらにでも転がる、という話に見える。

徴兵制度が生んだ「量はあるが質は低い」現地兵

ローマは徴兵を始めるが、金銭の支払いで兵役を免除できる仕組みがあったため、免除金を払えない貧乏人ばかりが実際に徴兵される構造になった。結果、数だけは揃うが質は低い現地兵が量産される。

さらにこの現地兵、装備もおそらく自前だったと考えると、質の低さに拍車がかかる。ローマがどんどん蛮族傭兵に頼らざるを得なくなっていくのも、この現地兵の質の低さと表裏一体だったんだろう。

そして構造として救いがないのが、その現地兵が実際に戦う相手のほとんどが蛮族であること。蛮族側もろくに金を持っていないので、戦っても略奪する実入りがほぼない。質の低い兵士が、儲からない戦争を延々とやらされるという、誰も得しない構図になっている。

蛮族側の土地と市民権

蛮族傭兵は当初、軍人としての比率が大半を占めていた。見返りとしてローマから土地を与えられ、定着や市民権につながるケースもあった。ただしこの市民権付与、蛮族の待遇改善というよりリーメスの防衛を担わせるための実利的な配置という側面が強い。フォエデラティ(foederati)という、ローマと条約を結んだ部族への土地供与の仕組みが4〜5世紀にかけて制度化されていくが、これも税収減少にローマが対応するための現実的な妥協だったようだ(Wikipedia「フォエデラティ」)。

「市民権をあげるから守ってね」という取引に見えるが、これがのちのち各地方が自立的にまとまっていく(=帝国が分裂していく)遠因にもなっていくらしい。

感想

貨幣の話も徴兵の話も、根っこは同じで目先の帝国存続のための場当たり的な対応が、長期的には自分の首を締めているという構図に見える。銀を薄めて延命したら信用が崩れる、免除金で徴兵を回避させたら現地兵の質が落ちる、蛮族に頼れば頼るほど帝国の中身がゲルマン化していく。どれも「その場ではまあ合理的な判断」なんだけど、積み重なると詰んでいく感じがして、現代の組織運営とも重なるところがある気がする。

AI補足

概ね一致している点

  • デナリウス銀貨の品位低下が3世紀の軍人皇帝時代に急激に進行し、実質的に銅貨同然になったこと
  • デキウス帝による全帝国規模のキリスト教迫害(250年)と、その背景にゲルマン人(ゴート人)の侵略があったこと
  • フォエデラティ制度がローマ側の税収減少への対応として、蛮族への土地供与という形で制度化されていったこと

諸説あり・留保が必要な点

  • 「徴兵の質の低下」と「蛮族傭兵への依存拡大」の因果関係については、ユーザーメモの解釈に沿う形で書いたが、この因果の強さ自体は文献によって強調点が異なる可能性があり、断定はできない
  • 「現地兵の装備が自前」という点は一般的なローマ軍装備事情からの推測を含み、この時期・この兵種に限定した直接的な裏付け史料までは今回確認できていない

参考

田中克彦『ノモンハン戦争』読書メモ①

ノモンハン戦争/田中 克彦|岩波新書 - 岩波書店

田中克彦『ノモンハン戦争―モンゴルと満洲国』を読んでる。頭から引張だして書いたメモなので時系列ガン無視で。

補足: 書誌を確認したところ、版元は岩波書店で合っているが、正確には岩波新書(新赤版1191、2009年刊)。全241pの新書サイズ。

構成について

タイトルは「ノモンハン戦争」だが、戦争そのものの経過を扱ってる分量は薄い。大部分は当時のモンゴル(外モンゴル・内モンゴル・ブリヤート)が置かれていた政治的・民族的状況の記述に割かれている。戦争の背景を厚く描くための構成として理解はできる、という前提で読んでいる。

汎モンゴル主義

外モンゴル(モンゴル国)、南モンゴル(現・中国内モンゴル自治区)、ロシアのブリヤート共和国を統合し、大モンゴルを再興しようという思想。場合によってはトゥヴァやアルタイ共和国まで含めることもある。

帝政ロシア・清朝が崩壊したあと、国境線によってバラバラにされたモンゴル系民族を再統合しようとする動きで、ブリヤートの知識人が学術・言語整備(モンゴル文語の統一とか)を通じて民族意識の形成に関与していたらしい。

面白いのが、「汎モンゴル主義」という呼び方自体が西洋側の視点による命名だという点。当時の帝政ロシアやソ連、西欧には、モンゴル系や東アジア系を個別の民族的文脈を無視してまとめて「イエローモンキー」的な人種カテゴリで括る風潮があった、と。名付ける側の視線がそのまま用語に残ってる感じで、なんというか、うんこイベントの匂いがする。

三蒙統一主義という言い換え

これは著者・田中克彦による再定義語。「汎モンゴル」だとトゥヴァ・アルタイなど本来の統一主体とは別の集団まで含意してしまうため、実際に統一の主体だった3つのモンゴル系集団(外モンゴル・内モンゴル・ブリヤート)に絞って「三蒙」と定義し直している。

対比としてはこう整理できる。

用語 由来 ニュアンス
汎モンゴル主義 西洋側からの呼称 人種主義的な含みを持つ、ざっくりした括り
三蒙統一主義 田中克彦による再定義 当事者の実態(3集団)に即した用語

呼称一つで含意がまるっと変わるの、歴史用語あるあるだけど、著者がわざわざ言い換えてるってことは相当こだわりがあるポイントなんだろうな。

補足: 「三蒙統一主義」という語自体をネットで検索したが、それらしいものは出てこなかった。学術用語として定着しているかは未確認。関連書籍としては、ボルジギン・フスレ『ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係』(三元社、2013年)がヒットした。同じくノモンハン戦争と国際関係を扱っている本らしいので、気になったら次はこっちも読んでみたい。

感想

今のところノモンハン戦争そのものより、その手前の民族史・国境史の部分の方が面白い。「誰の土地で、そこに住んでた人たちがどういう状況だったか」を追う視点、現代の国境紛争にもそのまま応用できそうな枠組みだと思う。続きあれば②へ。

AI補足

  • 概ね一致している点: 版元・刊行形態(岩波新書、2009年刊、新赤版1191)、ノモンハン戦争の犠牲者規模(双方合わせて約2万人)、目次構成に「汎モンゴル主義」「受難のブリヤート人」の章が存在すること。
  • 諸説あり・留保が必要な点: 「三蒙統一主義」は検索しても該当する情報が出てこなかった。田中克彦オリジナルの造語かどうか、学術的に定着した用語かどうかは未確認のまま。書籍本文の直接引用ではなくメモからの再構成のため、正確な文言は原著で要確認。

ヨーロッパとゲルマン部族国家を読む②

Q1028 ヨーロッパとゲルマン部族国家 - 白水社

前回はフン族圧力説の単純化と、エスノジェネシス論の入り口まで書いた。今回はその手前、3世紀の「リーメス」体制がなぜ崩れたのか、という話を読み進めたメモ。

持ちつ持たれつの国境線が、なぜ崩れたか

ライン川・ドナウ川のリーメスは、長らく交渉と交易が機能する境界線だった。それが変わるのが3世紀。235年、皇帝セウェルス・アレクサンデルが軍に暗殺されたのを境に、ローマは軍人皇帝時代というおよそ半世紀の混乱期に入る(Wikipedia「3世紀の危機」)。

決定的だったのは260年、皇帝ウァレリアヌスがエデッサの戦いでササン朝のシャープール1世に捕虜にされた事件(世界史の窓「ササン朝ペルシア」)。皇帝が敵国に連れ去られるという前代未聞の失態で、ローマは事実上、本来のローマ帝国・ガリア帝国・パルミラ帝国に三分裂してしまう。271年にはアウレリアヌス帝が、ドナウ川以北で防衛が困難だったダキア属州をゴート族に譲渡している(Wikipedia「ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス」)。

面白いのは、蛮族側の動きとローマの失態がかなり近いタイミングで重なっていること。ライン方面のアグリ・デクマテス(マイン川とライン川に挟まれた農業地帯)が放棄されたのも、ちょうどこの前後らしい。偶然にしては出来すぎていて、ローマの機能不全を見て動いた、と考える方が自然に思える。

東西で挟撃していたわけではなさそう

「ササン朝と蛮族側が示し合わせていたのでは」という疑問も持ったが、これは今回調べた範囲では裏付けが見つからなかった。西のゲルマン人と東のササン朝は、史料上はあくまで並行して帝国を圧迫した別々の脅威として扱われていて、両者が連携していたことを示す記述はなかった。地理的にもライン・ドナウ方面とメソポタミア方面はかなり離れていて、直接の外交ルートがあったとは考えにくい。「連携」というより「同じ相手が同時に手薄になったのを、それぞれ独立に利用した」くらいに捉えておくのが妥当そう。

ではその「手薄になった」情報はどう伝わったのか。3世紀頃からゲルマン人傭兵がローマ軍に加わるようになっていて、騎兵・歩兵の中核を担ったり将軍に昇進する者もいた、という流れがある。傭兵として実際にローマ軍内部を見ていた人間が故郷に戻れば、皇帝が次々暗殺される混乱ぶりくらいは当然伝わるはず。加えてリーメス沿いには交易拠点もあったので、組織だった諜報網というより、傭兵と交易という既存の人の往来を通じて情勢が漏れ伝わった、というのが実態に近そうだ。

「民族」はやはり後から名付けられたものらしい

前回触れたエスノジェネシス論の続き。フランクという呼称は3世紀半ばに史料上初めて登場するが、これはもとをたどるとカマーウィー族、ブルクテリー族、サリー族などライン川とヴェーザー川の間に住む複数の部族の総称としてローマ側がつけたレッテルで、当事者たちが実際に「フランク人」という共族意識を持っていたかは不明とされている(Wikipedia「フランク人」)。

ゴート族についても同様の指摘があって、西ゴート・東ゴートという区分自体、実際に部族がそう自己認識していたわけではなく、後の国家形成段階(つまりそれぞれが王国を建てた段階)になって初めて意識的に整理されたものらしい(南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013年、世界史の窓「東ゴート人/東ゴート王国」経由)。

つまりどちらも、先に「民族としてのまとまり」があって連合したのではなく、ローマとの対抗という共通の政治状況に置かれたことで緩やかな連合ができ、名前や部族としての体裁は後から(多くはローマ側の史料や、建国後の年代記作者によって)整えられた、という順序になる。前回話した「検証不可能性」の話とはまた別の角度だけど、根っこにある「後付けで整理された物語を、当時からあったものとして読んでしまいがち」という構造は同じだと思う。

余談:frankの語源

雑談から出た話だけど、英語のfrankは正真正銘フランク族が語源。クロヴィスによるガリア征服後、支配層のフランク人だけが「自由民」という法的身分を持っていたため、「フランク人のような」=「自由な」という意味がまず生まれ、そこから「率直・遠慮がない」という今の意味に転じたとされる。日本語の「フランクな態度」もこの英語をそのまま輸入した言葉。

ちなみにフランク族という部族名自体の由来は、投げ槍を意味する語に由来するという説があるらしいが、こちらは確定した話ではなさそうなので深追いはしない。とはいえ「投げ槍」→「フランク」→「率直・無頓着」という連想は、日本語の「投げやり」の語感とも不思議と重なるところがあって、言葉が違っても似たような比喩に行き着くものだなと思った。