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ヨーロッパとゲルマン部族国家を読む①

この記事はAIの支援を受けて作成しています。

「フン族が来たのでゲルマン諸族が逃げた」という教科書の矢印一本の説明にずっと引っかかっていたので、少し調べたメモ。

矢印一本では足りない

フン族の圧力→ゴート族が押し出された、という流れ自体は否定されていない。ただ原因はそれだけではなく、寒冷化などの気候要因や、ローマ帝国側の内部の弱体化も並行して挙げられている (Wikipedia「ゲルマン人」)。「フン族だけが原因」と言い切るのは単純化しすぎ、というのが今の感触。

「民族」という単位自体が作られたもの、という見方

「ゴート族」のような呼び方も、最初から血統的にまとまった一つの集団があったわけではなく、事後的に政治的にまとまってできた集団らしい。この手の「民族はどう形成されたか」を論じる分野が民族起源論(エスノジェネシス)と呼ばれていて、民族集団の自己認識や外部からの識別を通じて集団が形成されていく過程を扱う、とされている (Wikipedia「民族起源論」)。

ヨルダネスという6世紀の著述家が「ゴート族はスカンディナヴィア起源」と書いているのも、そのまま史実として読むより、当時の権力側が自分たちを権威づけるために語った起源神話として捉えたほうがよさそう。

ちなみに「ゴート語と古ノルド語(スカンディナヴィア系)に言語的共通点がある→起源が同じでは」という発想も出てきたけど、これは言語学的にも危うい。似ている特徴が「共有の起源」なのか「単なる古い形の生き残り」なのか「後からの接触で似ただけ」なのかは区別がつかないらしく、深追いはやめておく。

ガリア人がローマ内部に食い込んでいった話

ガリアの有力者がローマの高官になった件、これは史料的にはっきりしている。48年、皇帝クラウディウスがガリア人の元老院入りを認めるよう演説していて、これがリヨンで見つかった碑文に残っている (コトバンク「ガリア」)。宗教面も土着の神々やケルト語がローマ支配下でも残っていたとされていて、丸ごと同化というよりは部分的な取捨選択だったよう。

フランク族の改宗:王族はすぐ、民衆はゆっくり

クロヴィスの改宗(496年)は王族レベルでは早い決断だった。妻クロティルドの勧めで、多くのゲルマン王国が選んでいた異端のアリウス派ではなく、ガリアの多数派だった正統派(アタナシウス派)に改宗している。目的はガリアの多数派住民やローマ系文化人の支持を取り込むことにあったとされる (世界史の窓「クローヴィスの改宗」)。

ただし史料であるトゥールのグレゴリウスの記述には護教的な脚色が多いことも指摘されていて、洗礼の経緯を全部そのまま事実とは扱えないらしい (世界史小話「クローヴィスの改宗」)。

民衆レベルでどれくらい異教が長く残ったかについては、今回はいい日本語ソースが見つからなかったので保留。

「どれだけ長く残ったか」は調べようがない、について

これは前回話した通り、史料を残すのは基本的に教会側で、「まだ異教が残っている」という記述自体が根絶できていない苛立ちの表れであって、実態の量を測る物差しにはならない。今でも家によっては先祖の風習が残っているかもしれない、という話も、それが本当に古代からの直接継承なのか後から権威づけのために語られたものなのかは、外から検証するすべがない。この検証不可能性そのものが面白いところだと思う。