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ヨーロッパとゲルマン部族国家を読む②

この記事はAIの支援を受けて作成しています。

前回はフン族圧力説の単純化と、エスノジェネシス論の入り口まで書いた。今回はその手前、3世紀の「リーメス」体制がなぜ崩れたのか、という話を読み進めたメモ。

持ちつ持たれつの国境線が、なぜ崩れたか

ライン川・ドナウ川のリーメスは、長らく交渉と交易が機能する境界線だった。それが変わるのが3世紀。235年、皇帝セウェルス・アレクサンデルが軍に暗殺されたのを境に、ローマは軍人皇帝時代というおよそ半世紀の混乱期に入る(Wikipedia「3世紀の危機」)。

決定的だったのは260年、皇帝ウァレリアヌスがエデッサの戦いでササン朝のシャープール1世に捕虜にされた事件(世界史の窓「ササン朝ペルシア」)。皇帝が敵国に連れ去られるという前代未聞の失態で、ローマは事実上、本来のローマ帝国・ガリア帝国・パルミラ帝国に三分裂してしまう。271年にはアウレリアヌス帝が、ドナウ川以北で防衛が困難だったダキア属州をゴート族に譲渡している(Wikipedia「ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス」)。

面白いのは、蛮族側の動きとローマの失態がかなり近いタイミングで重なっていること。ライン方面のアグリ・デクマテス(マイン川とライン川に挟まれた農業地帯)が放棄されたのも、ちょうどこの前後らしい。偶然にしては出来すぎていて、ローマの機能不全を見て動いた、と考える方が自然に思える。

東西で挟撃していたわけではなさそう

「ササン朝と蛮族側が示し合わせていたのでは」という疑問も持ったが、これは今回調べた範囲では裏付けが見つからなかった。西のゲルマン人と東のササン朝は、史料上はあくまで並行して帝国を圧迫した別々の脅威として扱われていて、両者が連携していたことを示す記述はなかった。地理的にもライン・ドナウ方面とメソポタミア方面はかなり離れていて、直接の外交ルートがあったとは考えにくい。「連携」というより「同じ相手が同時に手薄になったのを、それぞれ独立に利用した」くらいに捉えておくのが妥当そう。

ではその「手薄になった」情報はどう伝わったのか。3世紀頃からゲルマン人傭兵がローマ軍に加わるようになっていて、騎兵・歩兵の中核を担ったり将軍に昇進する者もいた、という流れがある。傭兵として実際にローマ軍内部を見ていた人間が故郷に戻れば、皇帝が次々暗殺される混乱ぶりくらいは当然伝わるはず。加えてリーメス沿いには交易拠点もあったので、組織だった諜報網というより、傭兵と交易という既存の人の往来を通じて情勢が漏れ伝わった、というのが実態に近そうだ。

「民族」はやはり後から名付けられたものらしい

前回触れたエスノジェネシス論の続き。フランクという呼称は3世紀半ばに史料上初めて登場するが、これはもとをたどるとカマーウィー族、ブルクテリー族、サリー族などライン川とヴェーザー川の間に住む複数の部族の総称としてローマ側がつけたレッテルで、当事者たちが実際に「フランク人」という共族意識を持っていたかは不明とされている(Wikipedia「フランク人」)。

ゴート族についても同様の指摘があって、西ゴート・東ゴートという区分自体、実際に部族がそう自己認識していたわけではなく、後の国家形成段階(つまりそれぞれが王国を建てた段階)になって初めて意識的に整理されたものらしい(南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013年、世界史の窓「東ゴート人/東ゴート王国」経由)。

つまりどちらも、先に「民族としてのまとまり」があって連合したのではなく、ローマとの対抗という共通の政治状況に置かれたことで緩やかな連合ができ、名前や部族としての体裁は後から(多くはローマ側の史料や、建国後の年代記作者によって)整えられた、という順序になる。前回話した「検証不可能性」の話とはまた別の角度だけど、根っこにある「後付けで整理された物語を、当時からあったものとして読んでしまいがち」という構造は同じだと思う。

余談:frankの語源

雑談から出た話だけど、英語のfrankは正真正銘フランク族が語源。クロヴィスによるガリア征服後、支配層のフランク人だけが「自由民」という法的身分を持っていたため、「フランク人のような」=「自由な」という意味がまず生まれ、そこから「率直・遠慮がない」という今の意味に転じたとされる。日本語の「フランクな態度」もこの英語をそのまま輸入した言葉。

ちなみにフランク族という部族名自体の由来は、投げ槍を意味する語に由来するという説があるらしいが、こちらは確定した話ではなさそうなので深追いはしない。とはいえ「投げ槍」→「フランク」→「率直・無頓着」という連想は、日本語の「投げやり」の語感とも不思議と重なるところがあって、言葉が違っても似たような比喩に行き着くものだなと思った。