フランス史10講_2
つづき、二章
フランス
人の役割3つ
祈り、戦い、労働
労働が雑な括りすぎると思ったが、よくよく考えてみると納得した。
補足: これは「三機能理論」と呼ばれる中世ヨーロッパのイデオロギー的身分論。祈る人(聖職者)・戦う人(騎士)・働く人(農民)という区分は、支配を正当化するための建前でもあった。
なぜ労働以外は労働にはいらないのか
祈りも戦いは本来であれば必要もないから。あまりにも効率的じゃない。しかし、戦は人間としては当然の備えるべきことだし、祈りも当時の人間にとっては支えとなる必要なものだと思う。それらは労働として見るのも少しおかしい気がする。
結局このことをわかっていながらも、労働や戦にズカズカと入り込んでめちゃくちゃにした教会はなんだったのか。
補足: 教会が介入できたのは、「神の権威」が王権より上位とされていたから。王でさえ破門されると統治の正当性を失う構造だった。介入は当時の権力構造上、合理的な戦略だった。
フランスの領主制度(〜10世紀ごろ)
ほぼ封建制度
ミクロ視点(民の視点)
からいえば、外敵(盗賊やら隣の領土やらの戦力)から守ってくれてる代わりに租を支払う仕組み。
しかし、途中から守れなかったり、あるいはほとんどそういったことが少なくなったこと
または教会がいろいろと茶々をいれてきたことなどがあって、フランス革命期には廃止された。
マクロ視点
国の中に国を作って、分割統治させる仕組み。結構な妥協案
王朝のちからが弱くなる世代の変わり目や戦などのイベントでしばし交代するが、
後述のカペー朝はここらへんを経済と法律の力で非常にうまくやった。
メモ: オマージュ
臣従礼(オマージュ)
オマージュとは日本人感覚的に言えば、よく言えばリスペクト、悪く言えばパクリなわけだが
本来の語源としてはこの封建社会における従属の儀式だったそうだ。
ではこれがなぜパクリスペクトになったのか。
それはリスペクトという点で共通している。
この臣従礼、当然服従ではあるが、それは友情のもとになりたってるという建前で行う儀式で
そう考えると先達者の技術に服従?しつつ、あくまでも友情、リスペクトがあるんだよということだとなんとなく解釈した。
補足: オマージュ(hommage)はラテン語の homo(人)から来ており、「あなたの人になります」という意味の誓約儀式。「友情」というより「人格的な忠誠の誓い」が正確なニュアンス。リスペクトへの転化は近代以降。
メモ: “封建制度"の語源
封建制は、もともとは中国古代の周王朝の統治制度であった。秦王朝で始皇帝の前で郡県制の導入が議論されてからは、封建制と郡県制の是非をめぐる議論がしばしば行われた。
Wikipediaを入るとなかなか議論中だとかあるが、ここらへんはそんな変わらないと思う。
一応Wikipediaにもあるが、日本語の封建の語源が上記のルーツであって、ヨーロッパは別軸と思われる。
この歳まで封建ときいてもなかなかイメージがつきにくかったのだが、語源でみるとなかなかわかりやすかった。
補足: 日本語の「封建」は中国(周王朝)由来、ヨーロッパの feudalism はゲルマン語の fief(封土)由来で、全く別系統の概念が同じ訳語になっている。
カペー朝 成立(987年〜)
987年成立。当初は王権が弱く、パリ周辺を抑えるのみで苦戦し続けた。
しかし、12世紀になると領域が広くなっていき、王朝も盤石なものとなる。
フランス教会改革運動(10〜13世紀:またのなを茶番)
1. 修道院改革運動 - 地元封建社会からの脱却(笑)(910年〜、11〜12世紀が全盛期)
要約: 修道院「利権もっとよこせや!」教皇「そうだそうだ」→領主「はい・・・」→修道院利益ほぼ独占丸儲け
補足: クリュニー修道院が910年に創設。建前は「世俗権力からの独立」だったが、結果として教会の権威・富が増大した。動機がどうあれ利権に走った結果になってるので、利権目当てと見るのは正当な解釈。
2. 信仰の純化を!(笑)(1098年〜、12〜13世紀)
要約: クリュニー修道院やりすぎ!信仰はもっと厳格に清貧にやるべき!よって俺らも独立!(シトー会、1098年創設)→清貧を掲げたのに羊毛・農業経営で莫大な富を築く→まったく同じ
結論
くだらん茶番
なんやこいつら
宗教に利権渡しちゃだめ。いいことほとんどない。
補足: 政教分離の根拠はまさにここにある。歴史的に見ても正しい観察。
神の平和(10〜11世紀)
- もともと戦争なんて百害あって勝てば一利程度しかないので民視点はやめてほしい。
- そこに教会がのっかる
- 利権渡せー!ついでに戦争やめろ、休戦日などを儲けろ!
- 領主側も流石に認めず、結局教会は当時戦力らしいものがなかったので実現しなかった
なおこの後領主と教会は結託して十字軍といううんこイベントを実施する模様。
補足: 「神の平和」運動は一定の効果はあった(特定の場所・人物への攻撃禁止など)。ただ強制力がなく恒久化はできなかった。その鬱憤が十字軍というベクトルに向いた流れはその通り。
教会が領主から司教の叙任権を奪う(1075年〜1122年)
フランスで司教の叙任権を領主から教皇へ渡す動き
抵抗されて、王vs教会となるが、結局教会側に権利がわたる。
メモ:領主側、この戦でなにも得るものがなく、しかも宗教絡みで騎士とかのモチベもくそひくいので早々に損切りしたものと見てる
13世紀、教区など教会の領分みたいなものが明確になって、広くなり、キリスト社会化が進む。
補足: 叙任権闘争はフランスより神聖ローマ帝国(ドイツ)側が主戦場。カノッサの屈辱(1077年)でハインリヒ4世が教皇に屈したのが有名。1122年のヴォルムス協約で決着。フランス王は比較的うまく折り合いをつけていた。「損切り」という解釈は鋭い。
十字軍(1096年〜13世紀)
キリスト社会化が行き過ぎ、領主軍と教会が共生する社会となった結果、信仰のもとに戦を行うようになる。
民視点は人がただただ死にまくっただけのゴミ。
| 教会 | 領主・騎士 | 民 | |
|---|---|---|---|
| メリット | 権威強めたい | ホコリを持ちたい | ? |
| 結果 | 弱体化 | 弱体化、治安悪化 | 治安悪化 |
補足: 副産物として東方との交易ルートが開き、商業発展のきっかけにはなった。ただし民が得をしたわけではない。
農業の発展(11〜12世紀)
封建社会によって、治安が比較的マシになる。
- 農業が発展する
- 1によって余剰が生まれ、それを売買する機会が増えて、経済が発展する。
- 商業が復活する
コミューン(12世紀〜)
都市から領主への自己主張
最初は領主も厳しく対応していたが、後述の理由で妥協するようになった。
この結果、次第に裁判権や自治権といったものが国民に移っていくこととなる。
カペー朝 強化期(12世紀〜)
カペー朝が強くなった理由
1. 経済
コミューンの奨励によって、都市が発展して貢納金が増えた。
経済力とは余裕。
2. 法律
余裕ができたことにより、法律家を雇って、カペー朝に有利な法整備を行う。
結果的にこれが東フランク王国との命運を分けた。
メモ:らしいのだが、東フランク側はよくわからん。後で調べる
補足: 東フランク(神聖ローマ帝国)は選帝侯制度のせいで王権が弱く、諸侯が強い構造が固定化した。カペー朝が法律家を使って中央集権化した一方、東フランクは法整備が遅れた。これが後のドイツの「統一の遅さ」にもつながる。
カペー朝の問題
国外
周辺国、というかここらへんの地域は元々がほとんどローマだったので、ローマ皇帝周りのあれこれや
キリスト圏内のためキリストの教皇などのあれこれで常に騒いでいた。
しかし、意外なことにカペー朝は不利な状況ではなかった。
ローマ皇帝、というか東フランク王国はフィリップ2世がボコボコにしてやって大空位時代突入したのでしばらく問題がなくなった。
十字軍で王が死んだりした影響で殉教者として尊敬されていたので強くも言われなかった。やばかったのは東フランクらしい?
国内(12世紀〜)
やばいのは国内。プランタジネット家があわやイングランドとフランスの半分ちょっとを持つ勢力になりかけてた。
発端は離婚で
ルイ7世とアリエノールというアキテーヌ公領の女相続人は結婚していたが、アリエノールと王妃との醜聞によりルイ7世とアリエノールは離婚してしまう。
認識ミス: アリエノール自身がルイ7世の王妃。「王妃との醜聞」ではなく「王妃(アリエノール)の不貞疑惑」が正確。相手はレーモン・ド・ポワティエ(アリエノールの叔父)との疑惑とされている。
そして、その後アリエノールはプランタジネット家のアンリと結婚してしまう。
これによって、プランタジネット家の領土が一気にカペー朝トップの広さになってしまった。
しかも、アンリは紆余曲折を得てイングランド王の継承者となってしまった (ちなみに、この時代のいわゆる連邦みたいなくくりだとこういうおかしな状態というのはたまにあったそうだ)
それなりにピンチになったカペー朝だが、前述した羽振りがよくなってたり、法律家を雇ったりして、
あれやこれや歴代の王家でプランタジネット家をいじめ抜いて最終的に多くの領土をぶんどることに成功した。
そのおかげで最盛期にはフランス領土の3/4を王領地とすることとなった。