フランス史10講_1
フランス史10講/柴田三千雄|岩波新書 を読んでいる。第一章の内容を自分なりに整理してみた。
読みながら頭から引張だして、Claudeにコレも違うあれも違うとダメ出しされまくって清書した内容となってる。
ガリアとフランク族
フランスの大本を辿ると、ガリアという地域にたどり着く。ライン川西側、今のフランス・ベルギー・スイス西部あたりを指す地域だ。ドイツ側はゲルマニアと呼ばれていたので、ガリア=フランスとドイツ両方、というのは厳密には少しズレがある。
ローマ帝国が衰退していく中で、ライン川東側のゲルマン系民族であるフランク族がこのガリアに侵入・定住してきた。
メロヴィング朝とクロヴィスの改宗
フランク族が建てた最初の王朝がメロヴィング朝。名前の由来は始祖メロヴェウス(Mérovée) で、その孫がクロヴィスだ。
当時のキリスト教世界ではアタナシウス派とアリウス派が激しく対立していた。アタナシウス派(後のカトリック)はイエスの神性を認める立場で、ガリアの旧ローマ系住民や聖職者に広まっていた。
クロヴィスの妻クロティルドがアタナシウス派の信者で、彼女を通じてキリスト教がクロヴィスに近づいていった。クロヴィスはある戦いの勝利をキリスト教の神のおかげと解釈し、改宗を決意。ランスの司教レミギウスが洗礼・塗油の儀式を執り行った(496年頃)。
蛮族であるフランク族がアタナシウス派と手を結んだことで、旧ローマ系住民の支持を取り込みフランク王国の基盤が固まっていく。
カロリング朝へ:宮宰たちの台頭
メロヴィング朝は約300年続いたが、後半は王が完全に形骸化し「怠惰王」と呼ばれる無能な王が続いた。実権を握っていたのは**宮宰(マヨル・ドムス)**と呼ばれる役職の人間たちだ。
その中でも重要なのがカール・マルテル。732年のトゥール・ポワティエの戦いでイスラム勢力(ウマイヤ朝)の北上を食い止めた。この一戦がなければヨーロッパのキリスト教世界は大きく変わっていたかもしれない。
カール・マルテルの息子ピピン3世は、教皇の承認を得てメロヴィング朝の王を廃位し、カロリング朝を創始した(751年)。
シャルルマーニュと西ローマ皇帝戴冠
ピピンの息子が**シャルルマーニュ(カール大帝)**だ。フランス語と英語ではシャルルマーニュ、ドイツ語ではカール大帝と呼ばれるが同一人物。
フランク王国の版図をフランス・ドイツ・イタリアにまたがる広大な領域に拡大し、800年に教皇レオ3世から西ローマ皇帝に戴冠された。西ローマ帝国滅亡(476年)以来、初めて西方世界に皇帝が復活した瞬間だ。
ヴェルダン条約と3分割
シャルルマーニュの死後、孫の世代が**ヴェルダン条約(843年)**によって王国を3分割した。
西フランク → ほぼ今のフランス
中フランク → ほぼ今のイタリア+ロレーヌ地方
東フランク → ほぼ今のドイツ「厳密には違う」という留保はあるものの、今のフランス・ドイツ・イタリアの原型がここで生まれたとも言える。特に中フランクのロレーヌ地方はその後もフランスとドイツの間で何百年にもわたって争われる火種になっていく。
封建制の誕生とカペー朝
分裂したフランク王国を悩ませたのがヴァイキング(ノルマン人)の侵攻だ。セーヌ川やロワール川を遡って内陸まで略奪を繰り返した。中央の王権がそれを止められないため、地方の公爵・侯爵・辺境伯たちが独自の軍隊を持って自衛するようになった。これが封建制の実質的な始まりだ。
やがてカロリング朝の血統が途絶え、強力な地方領主が王に成り代わる。987年にユーグ・カペーがフランス王に選出され、カペー朝が始まった。
東の話:神聖ローマ帝国
一方、東フランク(ドイツ方面)ではオットー1世が962年に教皇から戴冠を受け、神聖ローマ帝国が成立した。フランスとドイツはここで明確に別の道を歩み始める。