メロヴィング朝①―クロヴィスからダゴベルトあたり
見てる。
前の本とかもだけど、読みきれないこと多いので本の時系列ガン無視でメモっていくことにした。
番号は一応振ってるけどあくまでも書いた順番ってことでよろしく
クロヴィスがすごかった
西ローマ崩壊(476年)から数十年後、クロヴィス1世(約466-511年)は5世紀末から6世紀初頭にかけてガリアをほぼ統一した。
- 486年:ローマ残党シアグリウスをソワソンの戦いで撃破
- 496年:アレマン人をトルビアックの戦いで撃退
- 507年:ヴィエの戦いで西ゴート族をガリアから駆逐
- カトリックに改宗→教会・ローマ系住民の支持獲得
他のゲルマン諸族がアリウス派(異端扱い)だった中、カトリック改宗は支配の正統性を一気に確立する政治的天才手だった。
でも仕組みがクソだった
クロヴィス死後(511年)、王国は息子4人に均等分割される。これがメロヴィング朝の「病気」の根本だった。
フランク族には「王国は息子全員への遺産」という発想があり、「帝国は分割不可」というローマ的概念がなかった。
分割→内紛→統一→また死んで分割、をひたすら繰り返す。
ブルンヒルデとフレデグンドの数十年抗争
6世紀後半の実質的な主役は2人の女性だった。
ブルンヒルデ(約543-613年)
- 西ゴート王女出身
- 夫シギベルト1世が暗殺される(575年)
- アウストラシア(王国の東部・現ドイツ西部〜ベルギー周辺)を拠点に、40年近く息子→孫→曾孫を擁して摂政として実権を握り続ける
- 道路整備・教皇グレゴリウス1世との文通など行政手腕もあった
- 史料がほぼ敵対側の記述なので実像は不明
フレデグンド(†597年)
- 侍女出身・苛烈な策謀家
- ネウストリア(王国の西部・現フランス北部)側を牛耳り、ブルンヒルデと血みどろの抗争を展開
この2人の対立がフランク王国の内紛の本質だった。
613年:クロタール2世の統一
ブルンヒルデが曾孫(10歳)を擁して摂政をしていたところに、クロタール2世が侵攻。
アウストラシア貴族が「40年間振り回された、もう限界」と寝返り、ブルンヒルデはあっさり捕縛される。
3日間拷問の末、馬4頭に四肢を縛られ処刑。享年60代。
クロタール2世はフランク全土を統一し、翌614年にパリ勅令で貴族・教会に大幅譲歩した。これが結果的に王権を形骸化させ、宮宰を増長させる引き金になる。
貴族と教会のズブズブ構造
フランスの貴族が一貫して強い理由は構造的なものだった。
- クロヴィスがローマ系地方有力者をそのまま取り込んだ
- 司教=地方の実力者とほぼイコール
- 貴族の次男三男が教会に入るので貴族と教会が家族
教会は王にとって地方監視・情報収集・思想統制のインフラだったが、文書行政や知識を教会側が独占していたため、いわば「インフラが自我を持ってシステム全体を規定していく」構造になっていた。
監視ツールとして使いたかったのに、ツールに支配された。
ダゴベルト1世:メロヴィング朝最後の輝き
639年に死んだダゴベルト1世がメロヴィング朝実質最後の有能な王とされる。
死後また2分割(シギベルト3世→アウストラシア、クロヴィス2世→ネウストリア+ブルグンディア)。
宮宰台頭の予兆:キルデベルト養子王事件
シギベルト3世に子供がいなかった時期、宮宰グリモアルドは自分の息子キルデベルトを王の養子にねじ込むことに成功した。
しかしその後シギベルト3世に実子ダゴベルト2世が誕生するという想定外が発生。シギベルト3世が死ぬと、グリモアルドは実子を剃髪してアイルランドの修道院に島流しにし、養子の我が子をそのまま即位させた。
結果:フランク貴族の反発でグリモアルド処刑、キルデベルトも消える。
「メロヴィング家の血」という正統性を宮宰たちが散々利用してきたのに、いざ自分が使おうとしたら同じ概念に跳ね返された。
血統は偽造できない。でも神のお墨付きは買える——この失敗が、後のピピン3世に教皇ルートを思いつかせる。続きあれば②へ。