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スペイン史10講_2 フランスヴァロワ周りの脱線つき

この記事はAIの支援を受けて作成しています。

スペイン史10講

読んでる。

中世スペイン史とイングランド・フランスの因縁、あと勝手にやってるフランス王格付けのメモとか

途中から時系列ガン無視で頭から書き出したりしてる。

カスティーリャ〜グラナダ陥落

カスティーリャはもともとレオン王国の辺境伯領、つまり対イスラム最前線の防衛区画だった。それがサンチョ3世の代で王国に格上げされて、その後もレオンと統合・分裂を繰り返す。国境の防衛拠点が本体を飲み込んでいく感じ、辺境が中心になるパターンって歴史あるあるだと思う。

アルフォンソ6世が1085年にトレドを奪還したのは大きい。370年近くイスラム支配下にあった都市を取り戻したわけで、これはレコンキスタ史上初の大都市征服とされている。

ただしこの勝利、調子に乗ったアルフォンソ6世が翌1086年にサグラハスの戦いでムラービト朝に大敗するオチがついてくる。勝ったと思ったら北アフリカから援軍呼ばれて返り討ち、という展開はこの時代割とよくある。

アラゴン連合王国も面白い。核になったのは1137年、アラゴン女王ペトロニラとバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚によるアラゴン王国とバルセロナ伯領(カタルーニャ)の結合(Wikipedia)。バレンシアとマヨルカ(バレアレス諸島)は13世紀前半、ハイメ1世の代にイスラム勢力から征服・編入されたもので、後から加わったピースになる。各領域は独自の法律・議会(コルテス)を維持したまま王だけを共有する複合君主制で、王は同じだけど国はバラバラという統治形態が18世紀初頭まで生き延びるのはちょっと異常な粘りだと思う。

ポルトガルの独立も段階を踏んでいる。1139年(オーリッケの戦いの後、アフォンソ・エンリケスが国王として推戴された年)に王号を称し、1143年のサモラ条約でレオン側がこれを政治的に承認、そして教皇による正式な国家承認は1179年の教皇勅書までかかっている(Wikipedia)。名乗り→隣国の承認→教皇の承認と3段階に分かれているので、「独立年」を一言で言い切るのは実は難しい。

とはいえ13世紀半ばに自力でレコンキスタを完了させたあとは半島内紛から距離を置いて大西洋へ向かう、というのも納得の流れ。隣がずっと戦争してる場所からさっさと抜けて海に出るの、判断として正しい。

グラナダ王国が250年も生き延びた理由は複合的。シエラネバダの険しい地形、カスティーリャ側の内輪もめ、朝貢システム、地中海貿易による経済的な豊かさ。特に朝貢して属国扱いされることで生き延びるという選択、プライドより実利を取った結果として250年稼いだわけで、これは普通に有効な戦略だったと思う。

統一のきっかけはイサベル1世とフェルナンド2世の結婚(1469年)。自分のメモでは「駆け落ち婚」と書いたけど、これも少し正確に言うと事情がある。

補足: イサベルは兄王エンリケ4世の意向でポルトガル王への輿入れが検討されていたが、これを拒否し、地中海に勢力を持つアラゴン王子フェルナンドを自ら結婚相手に選んだ(Wikipedia)。周囲の意向を無視して密かに結婚した、という点では「駆け落ち」の空気はあるが、逃避行というより政略的な自己決定に近い。

エンリケ4世が死んだあとカスティーリャ継承戦争(1475-79)が起きて、イサベル側が勝って事実上の同君連合が成立。ここから本腰入れてグラナダ攻略に向かい、1492年1月2日に陥落。ボアブディルがアルハンブラ宮殿の鍵を引き渡して降伏・亡命した(グラナダ陥落についての解説)。同年にコロンブスが出航してるのも有名な話で、レコンキスタの完了と大航海時代の幕開けが同じ年に重なってるの、歴史の節目としてできすぎてる。

英仏の因縁

カペー朝(987-1328)は前半、王領がめちゃくちゃ弱くて諸侯のほうが強いという情けない状態が続く。フィリップ2世あたりから王権強化が始まる。

因縁の発端はアリエノール・ダキテーヌ。ルイ7世と離婚したあと、わずか2ヶ月後にアンジュー伯アンリ(のちのヘンリー2世)と再婚(Wikipedia)。アリエノールが持ってきたアキテーヌ領とアンジュー家の領地が合体して「アンジュー帝国」(ノルマンディー+アンジュー+アキテーヌ)が成立、当時のフランス王領よりはるかに広大になる。フランス王の家臣のはずのイングランド王が、主君より広い土地を大陸に持ってるという歪な構図がここで生まれる。

これを是正したのがフィリップ2世。失地王ジョンの甥アーサー(ブルターニュ公)の相続権を担いで内紛を煽り、宗主権の建前を悪用して法廷闘争に持ち込み、最終的に軍事行動でノルマンディーをはじめ大陸領の大半を奪う(Wikipedia)。制度と実力の両方を駆使する、というのがフィリップ2世のえげつないところ。裁判で正当性を作ってから軍事的に決着つける、現代でもよくある手口だと思う。1204年頃に大陸領の大半を失ったジョンは、その後も税と軍役を貴族に要求し続けて反乱を招き、1215年にマグナ・カルタへの署名を強制される(マグナ・カルタ Wikipedia)。大陸で領土失って、本国でも貴族に押し切られる、二重に負けてる。

百年戦争(1337-1453)はヴァロワ朝(カペー断絶後の傍系)の代でさらに危機を迎える。1415年のアジャンクールで大敗、1420年のトロワ条約でヘンリー5世がフランス王位継承者として承認され、ほぼ王位喪失寸前まで追い込まれる(Wikipedia)。ここでジャンヌ・ダルクが登場(1429年)してオルレアン解放、シャルル7世をランスで戴冠させる。戦局の転換をジャンヌ個人の登場だけに寄せて語られがちだけど、実際には1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派とシャルル7世が和解しイングランドとの同盟を解消したこと、フランス側の軍制・財政改革、イングランド側の内部対立による弱体化なども重なっていて、ジャンヌの登場はその中の象徴的な転換点と見るのが妥当だと思う。

そこからフランスは巻き返して、最終的にカレー以外のフランス本土からイングランド勢力を一掃して戦争終結。厳密にはイングランドはカレーに加えチャネル諸島も保持し続けていて(カレーについての解説)、カレー自体は1558年までイングランド領として残る。とはいえフランス本土という意味では「カレー以外の全土を奪還」で通じる話ではある。

フランス王評価

カール大帝とナポレオンは別格として扱われることが多い。3枠目争いはフィリップ2世、ルイ14世、アンリ4世、フィリップ4世あたり。

ルイ14世は中央集権を完成させた王として評価が高い。貴族をヴェルサイユに集めて豪華な宮廷儀礼に縛りつけ、実質的な権力を骨抜きにする(ヴェルサイユと貴族統制について)。ここまでは統治手腕として見事。

ただし晩年は完全に失速する。戦争しすぎて財政破綻寸前まで追い込み、1685年にナントの勅令を廃止してユグノー(プロテスタント商工業者)を大量に国外流出させ、フランスの経済的競争力を自ら削る(Wikipedia)。さらに同盟関係も崩して孤立する。ルイ14世の死(1715年)から革命(1789年)までは70年以上あり、間に摂政期・ルイ15世・ルイ16世を挟むので、単純に「フランス革命の遠因」と言い切ると因果をまとめすぎになる。実際にはルイ14世が残したブルボン朝の慢性的な財政構造(戦費による負債体質)を悪化させ、それが革命前夜の財政危機につながる長期的要因の一つになった、というくらいの距離感が正確だと思う。

内政の集権スコアだけ見れば高得点だけど、それは地方の自立性や外交的信頼という「資本」を削って稼いだ点数、という割引きが必要だと思う。短期の統治効率と長期の国力は別物、という当たり前の教訓がルイ14世の生涯に詰まってる感じがする。ヴェルサイユで貴族を骨抜きにする発想自体は権力集中として合理的だったんだろうけど、その代償を払うのが自分の代じゃなくて後継者たちだった、というのがなんとも言えない。